龍馬の志を継いだ人々

坂本直の写真
@坂本直(さかもと・なお)(旧名・高松太郎)は、天保13年(1842)11月、土佐郷士・高松順蔵の長男として生まれた。母は龍馬の長姉・千鶴(ちづ)であり、龍馬の甥にあたる。
甥とはいえ7歳しか違わなかったため、龍馬は弟のように感じていたことだろう。 文久元年(1861)9月、土佐勤王党に加盟して尊皇攘夷運動に奔走していたが、文久3年1月、叔父の龍馬に誘われて勝海舟の門下生となり、海軍術を学んだ。以後龍馬と共に行動して亀山社中や海援隊の中心人物の1人として活躍。龍馬の指令により、蝦夷地開拓に向けての調査を行ったり、薩摩藩保護のもとで入手した大極丸の代価借用のための交渉などにあたった。
慶応3年(1867)に小野淳輔(おの・じゅんすけ)と改名、維新後は新政府に出仕し、かつて龍馬と共に蝦夷地開拓に向けて行動していたこともあり、翌慶応4年には蝦夷地経営に関する建白書を新政府に提出、五稜郭に置かれた箱館(現函館)裁判所(後の箱館府)権判事となった。 ところが、慶応が明治と改元されたこの年の10月、思わぬ事態が起こる。榎本武揚率いる旧幕府軍が五稜郭を占領、箱館府は激戦の末青森に逃れる。
直が使用していた弁当箱 坂本竜馬家の墓 しかし、翌明治2年(1869)4月、青森に集結した新政府軍は反撃を開始。約1ヶ月の戦いの末、5月18日に榎本らは降伏し、この箱館戦争と共に旧幕府軍は終焉を迎えるのである。   新政府軍の一員としてこの戦いに加わった直は、その戦功により松前候より褒章を受けた。その後、新政府は開拓使を設置して蝦夷地を北海道と改め、本格的な開拓に乗り出した。直も再度箱館府に勤務するが、何の理由からかこの年の12月免職となる。 明治4年、朝廷の命により坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名。以後、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任するが、明治22年、キリスト教信奉を理由に宮内省を免職となり、やがて高知に戻って弟・直寛の宅に同居した。父・順蔵や龍馬と同様に、直も役人向きではなかったのかもしれない。
その後の直は、不遇な晩年を送りながらも、高知教会の熱心な信者であったという。
明治31年11月、直は郷里・高知で病没し、翌年妻の留が息子・直衛を連れて北海道・浦臼に移住した実弟・坂本直寛のもとに身を寄せており、2人の墓は今も浦臼にある。

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晩年の琢磨の写真 地碑の写真 A澤辺琢磨(さわべ・たくま) 澤辺琢磨(旧名・山本数馬)は、天保6年(1835)1月生まれで、龍馬と武市瑞山の縁戚にあたる(龍馬の父親が琢磨の祖父と兄弟)。龍馬と琢磨は同い歳で、幼い頃は兄弟のように仲が良かったといわれている。 江戸・士学館道場で剣術修行中の安政(あんせい)4年(1857)8月、琢磨は仲間と共に酒に酔ってトラブルを起こし、不名誉な事件のため切腹させられる恐れもあったところを龍馬と武市の計らいで逃亡した。その後、近代郵政事業や電話交換事業の創設者となった前島密(1円切手の肖像に描かれている人物)と共に箱館に渡り、ある日、船宿に押し入った強盗を撃退したことから剣術の腕を見込まれて剣術 道場の師範に迎えられ、箱館の名士たちとも親しくなっていった。 やがて同地の神明社(現山上大神宮)に婿入りして澤辺姓と神職を継ぐ。 その後、ロシア正教布教のため箱館に滞在していた青年司祭ニコライの信念に満ちた教義に心を動かされ、慶応4年(1868)閏4月、日本人として初めて洗礼を受け、晩年は東京・神田駿河台のニコライ堂建立にも尽力し、長司祭(ちょうしさい)にも叙任された。 琢磨には、後に同志社大学の創始者となる新島襄(にいじま・じょう)との友情に満ちたエピソードが残っている。

琢磨が使用していた刀 新島は、天保14年(1843)、上州(じょうしゅう)(群馬県)安中(あんなか)藩士の長男に生まれた。国防と新国家建設に向けての識見を深めたいと密航を計画していた新島は、元治(げんじ)元年(1864)5月、友人の紹介によって箱館のロシア領事館で琢磨と出逢い、そのことについて相談を持ちかけた。 聡明な22歳の新島青年に、琢磨はひと目逢うなり脱国に手を貸そうと決心し、当時箱館に根を下ろしていたイギリス人経営のポーター商会の支配人・福士成豊(ふくし・なりとよ)に協力を求め、無事渡航は成功する。新島は、死罪を犯してまで(当時は密航に手を貸した者も死罪)協力してくれた澤辺と福士の恩を決して忘れることはなかったという。
上海経由で渡米した新島は、明治7年(1874)帰国し、翌年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立、福沢諭吉らと並んで明治の6大教育家の1人に数えられ た。ちなみに、琢磨については司馬遼太郎氏の『街道をゆく−北海道の諸道』(朝日文芸文庫)の中でも紹介されている。 直が箱館に渡ったちょうどその頃、琢磨は入れ違いで東北地方に渡っており、残念ながら2人が出逢う機会はなかったようであるが、明治維新という近代日本の黎明期(れいめいき)に、龍馬の縁戚にあたる2人が箱館で活躍したことには深い因縁(いんねん)といったものが感じられる。龍馬の北海道開拓にかけた想いが、彼らを彼の地にいざなったと思われるのである。


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坂本直寛の写真 B坂本直寛(さかもと・なおひろ) 坂本直寛は郷士(ごうし)坂本家(本家)5代目にあたる人物であり、彼によって坂本家は一家共々高知県から北海道に移住した。龍馬の宿願であった北海道開拓は、龍馬の跡目を継いだ兄・坂本直から直寛に引き継がれていった。 直寛はかつて才谷梅次郎(さいたに・うめじろう)のペンネームで自由民権思想の論説を発表していた時期がある。これは叔父・龍馬が使っていた才谷梅太郎の変名に因んだものと思われ、龍馬の思想を継承しようという意志の表れでもあったろう。直寛は平和革命路線の政治活動を経て、やがて北海道開拓とキリスト教伝道に生涯を捧げた。 坂本直寛は嘉永(かえい)6年(1853)10月5日生まれで、高松順蔵(たかまつ・じゅんぞう)と龍馬の長姉・千鶴(ちづ)の次男であり、坂本直の実弟にあたる。明治2年(1869)、坂本家の本家である権平の養子に入り、幼名・高松習吉(たかまつ・しょうきち)から坂本南海男(さかもと・なみお)に改名した。 明治9年5月、高知の立志学舎・英学普通学科に入学、原書で英学を学び、成績はトップクラスであったという。やがて自由民権運動で活躍するようになり、明治17年には高知県会議員に当選して名を直寛に改名。翌年には高知教会で洗礼を受け、キリスト教徒となる。政治家として活躍するも当時の藩閥政治に強く抵抗し、明治20年には保安条例に抵触したとして投獄され、2年後に釈放されたが、間もなく水難事故で妻・鶴井(つるい)と義妹・冨(とみ)を失うなどの苦難が続いた。
坂本直寛 入獄中に拓殖事業を思い立った直寛は、明治26年に県会議員を任期満了となったのち政治活動から離れ、キリスト教主義に基づく聖村建設の実現を目指し、明治28年、同志と共に合資会社北光社を設立。彼は初代社長に就任して北海道北見の開拓に着手する。北光社は北見開拓を目的として、直寛のほか、片岡健吉(かたおか・けんきち)、澤本楠弥(さわもと・くすや)、西原清東(さいはら・せいとう)ら土佐自由党のメンバーが中心となって設立された。明治30年4月、北光社による開拓移民募集に応募した112戸、約650人の移民団が高知浦戸港を出発。途中、船中ハシカの流行によって30余名が亡くなり、宗谷岬をまわってからは流氷に進路を阻まれるなど、入植に向けての航海は、困難極まる命がけのものであったという。やがて網走に上陸した移民団は、原始林生い茂るクンネップ原野を切り開き、現北見市開拓の先駆者となった。    視察のために既に北見入りしていた直寛は、この移民団を出迎えた後、移住準備のため一旦高知へ帰り、翌明治31年5月に家族と共に北海道浦臼へ移住する。当初、移住地は北見を考えていたようであるが、当地での実務を澤本が担当することになり、盟友・武市安哉(たけち・やすや)の急死によって浦臼の聖園農場の経営を引き継いだ土居勝郎(どい・かつろう)のすすめもあって浦臼への移住を決心したようである。北海道で政治上の理想実現も目指していた直寛にとって、石狩平野に位置する浦臼は政治活動にも都合の良い場所であった。
しかし、入植後間もなく石狩川大洪水が起こり、一帯が大損害を受けてしまう。直寛は材木で自ら講壇を作り、被災者の激励にあたると共に、民間有志の人々と共に救済活動にあたり、上京して板垣退助(いたがき・たいすけ)と面談の末、政府から80万円の援助を受けることにも貢献している。 明治35年2月、札幌でキリスト教系日刊紙「北辰日報」が創刊されると、その主筆に迎えられ、そのころ夕張炭鉱の鉱夫を中心に結成された、労働組合の先駆ともいえる「大日本労働至誠会」の会長にも推されている。しかし直寛は、間もなく伝道者としての道を選び、牧師となって軍隊や監獄での伝道活動や廃娼運動などに精力的に従事する。 旭川でピアソン夫妻と出会い、以後ピアソンに協力して旭川師団、十勝監獄、北見地方での伝道活動を行うなど、休む間もなく北海道各地を駆けめぐり、十勝監獄の囚人からは、“キリストの再来”と尊ばれるほど慕われたという。 明治44年9月、病気のため札幌にて永眠、享年59歳。幾度の試練を乗り越え、理想の実現を目指して妥協することなく生き抜いたその生涯は、叔父・龍馬の理想を継承したともいえる波瀾の人生であった。



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坂本直道 坂本彌太郎 C坂本直道(なおみち)と坂本彌太郎(やたろう) 坂本直道(6代目)は明治25年(1892)3月生まれ。直寛の死後一旦は坂本家の家督を継ぐが、当時彼はまだ20歳の学生で他に事情もあり、約1年後の大正2年(1913)1月に隠居の形をとり、家督は直寛の長女・直意の婿養子・彌太郎(義兄)が継ぐことになる。 直道は、大正9年(1920)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、南満州鉄道株式会社に就職。昭和4年(1929)、国際鉄道会議出席の命令を受け、2年間の予定でフランス・パリ駐在となる。  昭和6年9月、帰国を目前にして満州事変が勃発。直道は情報収集のためパリに留まり、昭和8年、後の外務大臣・松岡洋右(まつおか・ようすけ)が国際連盟日本代表としてスイス・ジュネーブの国際会議に出張した際には、随員として松岡の補佐にあたった。フランスに戻った直道は、満鉄欧州事務所長、日仏同志会理事をつとめるかたわら、仏文雑誌『日仏文化』を発行するなど日本とフランスの文化交流に貢献した。 昭和14年9月、第二次世界大戦が始まり、直道は翌年6月に帰国するが、その頃の日米関係は悪化の一途を辿っていた。それを憂慮した彼は、両国の関係改善、戦争回避を目指して軍部や政界実力者への文書活動を行うが、そのために憲兵隊や特高警察の監視を受けるようになり、それが原因で満鉄参与を辞任する。 その後、直道は軽井沢に蟄居し、隣人だった後の首相・鳩山一郎(はとやま・いちろう)と共に戦後の祖国復興について語り、その構想は昭和20年11月の日本自由党結成につながった。直道は顧問に推されるも、政治の表面に出ることを嫌ったのか間もなく辞し、その後は日仏経済懇話会理事長、電波監理委員会委員などの役職を歴任した。 昭和27年以後は国際問題に取り組み、数々の論説や著書を起草すると共に、日本の政財界の有力者やアメリカの要人に対して意見書を送るなどの文書活動を行った。昭和16年、フランスから帰国して間もない頃、直道は彌太郎の勧めで断絶していた龍馬家を相続し、本籍を浦臼に移している。
昭和47年7月東京にて病没。享年80歳。地味ながらも平和路線の政治活動に粘り強く取り組んだ直道の生涯は、龍馬や直寛に通じるものがあるといえよう。 坂本彌太郎(7代目・旧姓浜武氏)は熊本県出身、明治33年(1900)、25歳の時に婿養子として坂本家に入り、明治35年、三井物産に入社して木材輸出の業務に携わる。その後、明治38年には独立して釧路で「坂本商会」を始め、大正3年以降は札幌に移住し、牧場や農場の経営のほか「北海道製綱株式会社」を創設して、マニラ麻を原料とするロープを製造した。大正9年には札幌区会議員にも当選しており、公園設営調査員の任にあたるなど地元では名士だったようだ。 彌太郎は大正2年12月の釧路での大火の際、龍馬の遺品や遺墨の一部を焼失してしまったこともあ り、焼失を免れた遺品を安全に保管するため、昭和6年(1931)に京都国立博物館に寄贈している。ちなみにこれらの龍馬の遺品は、平成11年6月、文化庁によって国の重要文化財に指定されており、彌太郎の貢献は大きいといえる。 昭和25年1月、彌太郎は広尾にある次男・直行の自宅で永眠。享年76歳。

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坂本直行 D坂本直行(さかもと・なおゆき) 山岳画家として名高い坂本直行(8代目)は明治39年(1906)7月、釧路に生まれる。彌太郎の次男にあたり、終戦直後にハルビンで亡くなった長男・彌直(ひろなお)に代わって坂本家を継いだ。 大正13年(1924)、北海道大学農学部に入学。また、北大山岳部創部と同時に入部し、北海道内の山々を精力的に歩いた。北大卒業後、温室園芸を学ぶために東京の園芸会社に就職して見習いとして勤務するも、2年後の昭和4年(1929)に経済的理由で退社し、札幌に戻った。 昭和11年(1936)、十勝原野と日高の山々に心を奪われて広尾村字下野塚の原野に入植し、その後酪農と農業に従事するかたわら山へ出向き、スケッチを続けた。
昭和32年、彫刻家峰孝(みね・たかし)の勧めで初めての個展を開催。以後札幌、東京において定期的に開催された。昭和35年には開拓地を離れ、画業に専念。児童詩誌「サイロ」へのカット提供の他、執筆活動も行う。後に札幌に転居し、ネパールやカナダへのスケッチ旅行にも度々出向いている。昭和49年には北海道文化賞を受賞。 直行は、龍馬が夢見た北海道の自然をこよなく愛し、素朴で大胆なタッチで生涯にわたり描き続けた。昭和57年5月札幌にて病没。享年75歳。後に「坂本直行記念館」が河西郡中札内村(なかさつないむら)に建てられた。








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