平成24年6月 第4回龍馬塾「幕末の蝦夷地と北方領土」

平成24年6月 第4回龍馬塾「幕末の蝦夷地と北方領土」

 

 6月15日(金)午後6時30分〜8時、北海道坂本龍馬記念館ホールにて第4回龍馬塾「幕末の蝦夷地と北方領土」が開催されました。
今回は正会員、大学生、会社員、主婦のほか、沖縄県から観光で記念館を訪れた方を含む計8名が受講されました。 
 講師を担当してくださった加藤潔(かとう・きよし)氏は、もと函館市立青柳小学校校長を務められ、この春に定年退職されました。在任中は、蝦夷地の坂本龍馬像除幕式などの行事において、金管バンドゲスト演奏でのご協力をいただくなど、大変お世話になりました。
 また、北方領土問題に関する調査研究や活動を行ってこられ、今回は加藤氏が独自にまとめて下さった資料をもとに、プロジェクターで地図や図解などを映写しながら進行しました。
 冒頭、「函館豆記者交歓会」活動の紹介がありました。この活動は子どもたちを全国各地に派遣し、見学取材を通して学んだ文化や歴史を新聞にまとめたり、現地豆記者と交流する活動です。加藤氏が同行した沖縄県取材の中で、領土問題に対する沖縄県と北海道の関心度の違いを実感したそうです。それは歴史的背景の違いもありますが、今も様々な基地問題に直面している沖縄県の人々の思いが、否応なくその関心度に繋がっているのでしょうと語っておられました。
 北方領土問題についても、北方四島に近い根室などでは大変感心が高く、加藤氏はもっと多くの道民に北方領土問題への関心を持ってほしいという願いを込め、今日は特に幕末の坂本龍馬による蝦夷地開拓計画も含めて、その歴史と経緯について解説してくださいました。 。



 

■北方領土について
 北方領土と呼ばれているのは、第二次世界大戦後、当時のソ連に編入された日本固有の領土である南樺太(みなみからふと)、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)を含む千島列島ならびに歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)の諸島のことですが、一般的には択捉、国後、歯舞、色丹の四島を差して用いられることが多く、四島の総面積は5036平方qで、千葉県とほぼ同じです。
 根室・納沙布岬から歯舞群島との距離はわずか3.7qで、実際に現地で見るとすぐそばに感じます。そして、その間をロシアの巡視船が頻繁に往来し、監視しています。択捉島は水産資源に大変恵まれており、国後島には数々の景勝地や温泉が存在します。

■北方領土の移り変わり
@蝦夷地(北海道)を支配していた松前藩は、江戸時代初期から徳川幕府の出先機関として存在し、寛永12年(1635)に蝦夷地全域の調査を行いました。そして正保元年(1644)に松前藩主が幕府に献上した『正保御国絵図』には北方四島も描かれ、松前藩統治として報告しています。ただ、実際には現地調査をしたわけではなく、アイヌの人々からの伝聞をもとにして作成されたもののようですが、この頃はまだロシア進出の事実もなく、北方領土が日本固有の領土であることを主張する上で最も古い根拠となっています。やがて1700年代に入るとロシアが南下政策を進め、それを知った幕府は千島・樺太を含む蝦夷地を直轄地とするため、大規模な巡察隊を派遣します。
Aペリー来航後間もない安政元年(1855)、「日魯通好条約」が締結され、この条約で初めて日ロ両国の国境は択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に決められ、択捉島から南は日本領、得撫島から北の千島列島はロシア領とされ、樺太は今まで通り国境を定めず、両国民混住地とされました。この条約による国境確定が、北方四島が日本固有の領土であることを示す2つ目の根拠とされています。
B明治8年(1875)、当時は日本とロシアが協同統治していたために紛争が絶えなかった樺太について、明治政府は樺太千島交換条約を結び、これによって樺太を放棄するかわりに千島列島を譲り受け、日本領としました。
C明治38年(1905)、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約によって樺太の南半分(北緯50度以南)を日本領とし、以後、第二次世界大戦終了まで、南樺太と千島列島は日本の領土でした。
D第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)2月、ドイツの敗北が決定的となった情勢下、米・英・ソ首脳によって行われたヤルタ会談(密談)において、ドイツが降伏した後にソ連が参戦し、その見返りとして、ソ連に南樺太や千島列島を引き渡す内容が話し合われたといわれています。 
しかし、当時日本とソ連は日ソ中立条約を締結しており、両国は中立を守って戦争はしないことになっていました。しかし、ソ連はそれを無視して対日参戦し、満州、朝鮮半島、南樺太、千島列島に攻め入り、北方四島も占領します。終戦時、北方四島には約1万7千人の日本人が居住していました。脱出できなかった島民はやがて強制退去させられ、サハリンでの抑留生活を経て函館に送還されました。
昭和26年、日本はサンフランシスコ平和条約に調印し、千島列島と南樺太の権利を放棄しますが、その中には日本固有の領土である北方四島は含まれていません。また、ソ連はこの条約を拒否して署名しておらず、法的にはソ連が連合国の権利を主張することはできません。以後、北方領土問題は現在に至るまで続いており、今もなおロシアの不法占拠の状態が続いているのです。




■土佐藩と北方領土  土佐藩が蝦夷地に関心を示したのは安政年間(1854〜1859)といわれており、安政4年(1857)には、藩主・山内容堂の命を受け、手島八郎らが当時の箱館を視察しています。その後、文久3年(1863)には北添佶磨ら4名の土佐藩士が蝦夷地視察を行い、その時の経験と知識が龍馬の蝦夷地開拓計画に大きな影響を与えたといわれています。ちなみに、同志への手紙に「たとえ一人でもやり遂げる」という決意を記した龍馬にとっての蝦夷地とは、もちろん択捉島以南の四島や樺太を含んでいます。 龍馬にとって蝦夷地開拓は、○日本のせんたく(統一国家「日本」への変革)、○世界の海援隊(世界を相手にした貿易)と並ぶ大事業でした。しかし、度重なる船のトラブルや暗殺によって、残念ながらその夢は叶いませんでした。  龍馬亡き後、明治新政府は北海道全域と付近の島々の実行支配を目指して北海道開拓使を設置し、有力藩に分割統治を命じ、高知藩には石狩地区が割り当てられました。明治3年(1870)には23家族82人が北海道に派遣され、12月には択捉島の統治も行われていますが、このことはほとんど知られていません。ちなみに、函館ゆかりの人物で、男爵イモを生み出した川田龍吉も土佐藩出身です。やがて明治8年(1875)には屯田兵が設置されます。龍馬の夢は屯田兵制度として具現化され、その後の北海道開拓を担っていきます。  後に朝廷の命によって龍馬の跡目を継ぐ坂本直は、慶応4年(1868)、明治政府の役人として函館に渡り、龍馬の志を受け継ぎました。さらに、坂本家五代当主・坂本直寛は、明治31年(1898)、高知の開拓移民を斡旋する会社「北光社」初代社長として移民団を率い、北見市開拓の礎となりました。




■最後に
 最後に、参加された皆さんに感想を語っていただきました。沖縄県からたまたま観光で函館を訪れ、今日の龍馬塾に参加された男性は、沖縄返還前や現在の米軍基地問題などについての話をしてくださり、他の参加者の方々には大きな刺激となったようです。特に、はこだて未来大学4年の女子学生は、“領土問題を他人事のように感じていましたが、これからは日本や自分の故郷についてもっと関心を持ちたい”と語っていました。また、会社員の男性の方は、祖父が第二次大戦で出兵し、旧満州から引き揚げてきた経緯と共に、国益を守っていくことや、そのことを広く伝えていくことの大切さについて熱く語られるなど、参加者の方々それぞれが北方領土問題について再認識すると共に、龍馬の蝦夷地開拓への熱い想いを感じていたようです。