新島襄海外脱国記念祭
大変ご無沙汰しておりました。インターネット回線の契約変更手続きの関係で、しばらくインターネットが使用できず、更新が滞っておりましたことをお詫び申し上げます。
さて、昨日(7月17日)は函館市内にある「新島襄海外渡航記念碑」前において、「第10回新島襄海外脱国記念祭」が開催されました。
新島襄(にいじま・じょう)は、元治元年(1864・池田屋事件があった年)に函館に渡り、同年22歳という若さで国禁を破り、アメリカに渡りました。新島は、黒船の来航に対して無為無策の対応しかできない幕府に見切りをつけ、「日本を救うのは自分しかいない」との決意を持って脱国しました。
彼は「欧米の先進技術と科学、その根本の精神は何か?」を探り、それを体得しなければ日本は列強諸国の植民地にされるのではないかと憂慮した末、悲壮な決意で単身アメリカに乗り込んだといいます。当時、脱国は死罪にあたり、文字通り命がけの行動でした。
脱国を計画していた新島が、友人の紹介によってロシア領事館で出会ったのが龍馬の再従兄弟(はとこ)、澤辺琢磨(さわべ・たくま)でした。琢磨はひと目逢うなり脱国に手を貸そうと決心したといいます。やがて新島は、琢磨の紹介で当時函館に根を下ろしていたイギリス人経営のポーター商会の支配人・福士成豊(ふくし・なりとよ)の協力を得、無事脱国は成功します。
その後明治7年(1874)に帰国した新島は、翌年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立し、福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)らと並んで明治の6大教育家の一人に数えられました。新島は、死罪を犯してまで(当時は密航に手を貸した者も死罪)協力してくれた琢磨や福士らの恩を決して忘れることはなかったといいます。