‘お知らせ’ カテゴリーのアーカイブ

春猪宛て龍馬書簡が掲載されました

2013 年 3 月 8 日 金曜日

3月15日発行の週刊朝日百科「新発見!日本の歴史」シリーズ第2号『近代1・黒船の衝撃 新政府樹立へ』(朝日新聞出版)に当館所蔵の坂本龍馬書簡(慶応2年[1866]1月20日付/姪・春猪宛て)が写真入りで紹介されています。このシリーズは、次の時代を生きるための、新視点による歴史紹介をテーマにしたもので、近代日本の礎とも言える「薩長同盟」を検証するコーナーに、京都国立博物館学芸部企画室長の宮川禎一氏の論考と共に龍馬書簡が掲載されています(21ページ)。

この手紙の前半は年頃の娘である姪・春猪(はるい)を辛辣(しんらつ)にからかったもので、「この頃はあばた顔におしろいをはけ塗りこて塗りしているんだろう」とか、「そんなことをしてもお前は気が強いから男は皆逃げ出す」などと綴っています。たぶん、龍馬は春猪を妹のように感じて可愛がっていたのでしょう。しかし、末尾には一転して遺書的な内容が綴られています。「私も、もし死ななければ、4、5年のうちには帰れるかもしれないけれど、露の命は計れない(自分はいつ死ぬかわからない)。お前はこの先も長く無事で暮らしていくんだよ」と。

実はこの手紙を書く2日程前、龍馬は幕臣・大久保一翁から身の危険を忠告されていたらしく、いつ殺されるかもわからない恐怖感と、薩長同盟を目前に控えた緊張感、期待感の中でこの手紙を書いたものと思われます。命懸けで日本の将来のために行動し、そんな中にあっても家族への愛情を忘れることがなかった龍馬の優しさ。そういったものがこの手紙の行間からじわじわと伝わってきます。

ちなみに、この手紙を書いた3日後(23日)の深夜、龍馬は寺田屋で幕吏に襲われています。もし仮にその時龍馬が亡くなっていたら、文字通りこの手紙が遺書となっていたはずです。

薩長同盟締結前夜に書かれたこの手紙について、宮川氏は「薩長同盟の締結が日本の進路にとって重大な事であることを龍馬自身ががよくわかっていたことを暗示している」と解説しておられ、この手紙が歴史資料としていかに重要であるかということがよくわかります。かつて宮川氏は、この手紙について「個人的には全龍馬書簡の中でもベスト3に入る」と話してくださり、著書である『全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』(教育評論社)の中でも、重要度において最高評価をつけておられます。

まさに、日本の宝といえる手紙だと思います。

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東日本大震災義援金の最終報告と御礼

2012 年 12 月 28 日 金曜日

東日本大震災発生直後よりご協力をお願いしてまいりました北海道坂本龍馬記念館内での募金箱及び函館龍馬公園(蝦夷地の龍馬像前)での募金活動などで皆様からお預かりした暖かい募金に加え、函館社中の収益金の一部、当館スタッフや協力者の皆様よりお預かりした義援金は、4月~9月集計分の8,370円を新たに中央共同募金会に納めさせていただき、義援金の総合計は111,254円となりましたのでご報告申し上げます。被災地の一日も早い復興をお祈りしますとともに、ご協力いただいた皆様に心から厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。

北海道坂本龍馬記念館館長・三輪貞治、スタッフ一同


山内容堂公の佩刀

2012 年 12 月 11 日 火曜日

現在開催中の特別展『幕末維新の巨人たち』で特に注目の資料が土佐藩第15代藩主・山内容堂公の佩刀(はいとう)。幕末当時は容堂公以外は触れることもできなかったという貴重な名刀です(銘:左行秀[さのゆきひで])。
山内容堂は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬らと共に幕末の四賢侯と称された人物です。公武合体派として自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けましたが、倒幕へと傾いた時代の流れを止めることはできず、そんな中、龍馬と共に大政奉還や船中八策を策定していた後藤象二郎がこれらを容堂に進言しました。容堂はこれを妙案と考えて15代将軍・徳川慶喜に建白し、慶喜がこれを受け入れることによって慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還が上奏され、やがて日本は明治維新を迎えます。
この刀の鞘(さや)には、三菱財閥の社章の原型になった土佐・山内家の紋章「丸三葉柏紋」(まるにみつばかしわもん)が記されています。創設者である岩崎弥太郎が「船旗」として考えたのが、この「三葉柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を合成した「三角菱」で、これが現在の三菱の社章となりました。