北海道坂本龍馬記念館 館長ブログ


北海道坂本龍馬記念館からお知らせや、行事報告などをこちらでは投稿しております。

17歳の硫黄島

2009 年 6 月 27 日

今日は函館市内で行われた講演会に参加してきました。タイトルは『17歳の硫黄島・少年兵が語る、玉砕戦の真実』。講演者は17歳で通信兵として硫黄島に派遣され、意識不明の状態から奇跡的に生還した経験を持つ秋草鶴次氏(82歳)。
硫黄島での日米対戦については様々な映画でも描かれていますが、やはり経験者による生の体験談には重みがありました。以下、秋草氏の著書からの抜粋です。
■「その後また移動して一番奥の土豪のそばに腰を下ろした。しばらくそうしていたが、俺は意を決してひとり再び東の見張所に行った。そこにあった知人の屍はもうなくなっていた。俺はその場所に身を横たえて過ごすことにした。目覚めてはうじを食し、しらみを食べて、またウトウトと寝る。体力の限界と戦う長期戦だ」
この後間もなく、秋草さんは意識混濁に陥ります。意識を失っていく過程で以下のような夢を見たそうです。
■「故郷の大勢の人々が、こっちを向いて遠くで手を振っている。俺が一人で行く先には石ころばかりの河原が横たわり、子供たちが小石を積んで遊んでいる。そのそばには純白の衣を着た大きなお地蔵様が立っている。(中略)少し奥に入ると、文殊菩薩と名乗る人に出会った。その人は“ここまで来たら、もうお帰りなさい”と言う。俺はどうしていいかわからず黙っていた。すると“ここに来ると食べ物はいらない。水もいらなくなる。でもあなたはお腹が空いていて、水も飲みたいと思っている。だから、腹いっぱい食べて、水をたくさん飲んでから来なさい”と言った」
やがて、秋草さんは意識を取り戻しました。その時はグアム島の捕虜収容所のベッドにいたそうです。最後に「謝辞」とタイトルがつけられたあとがきから。
■「死を覚悟して敵前に身をさらし、爆弾や鉄砲弾による直撃弾などで戦死する者の多くは“天皇陛下万歳!”と一声を上げて果てた。重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは“おっかさん”と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者からは“バカヤロー!”という叫び声をよく聞いた。“こんな戦争、だれが始めた”と怒鳴る者もいた」
戦争は悲惨であり、決して繰り返してはならないと思います。しかし、だからこそ、過去の戦争についての客観的な検証が重要だとも思います。そういった意味でも、歴史を正しく学ぶことがとても大切なのではないでしょうか。


今日のお客様

2009 年 6 月 26 日

今日は、大変上品なご婦人お二人が来館されました。

それぞれ、仙台と東京から来られたとのこと、お友達なのでしょうか?お二人とも歴史に造詣が深く、展示パネルを見ながらの歴史談義に華が咲きました。
印象に残ったのは “今のように交通手段がない時代、龍馬のような人たちは移動するだけでも大変な苦労をしたんでしょうね” という言葉。 本当にその通りだと思います。龍馬さんは脱藩してから約5年の間に、およそ2万キロ以上もの距離を移動したと言われています。
最後に、“わずかですが協力させていただきます” と募金にご協力くださり、“こういう人の記念館をつくるということは、とてもすばらしいことですね。立ち寄ることができてよかった” と言ってホテルに向かわれました。
龍馬さんは、すてきな人々との出会いの機会を与えてくれています、本当に感謝です。


琴似屯田兵

2009 年 6 月 23 日

■今日は、読者Tさんからのレポートを紹介します↓

「私の祖母の祖父は仙台藩の武士で、明治8年(1875)、屯田兵の第一号として北海道・札幌の琴似に入植しました。主な仕事は、北海道開拓の鉄道『小樽手宮~小樽築港』間と、そこからさらに稚内まで引く仕事を任されていたと、祖母から先日聞いてきました。わたくしは、先日その足跡を辿って琴似神社の境内に足を運んできました。写真は先日撮影した、『琴似屯田兵授産場跡碑』、その頃は開拓使から養蚕が奨励されており、当時3500坪もあったそうです。その碑を見て、当時の開拓の人達の苦労がにじみ出ているような気がしました。屯田兵は、平時は開拓に従事し、有事は軍隊として戦う役割を担い、ロシアに対する牽制もあったといわれています」